朝、起きるとカーテンの向こうが明るくて寝過ごしたかと慌てた。雪が光を取り込んだようだ。猫が布団に入ってきて、いつにもまして起き上がりたくない気持ちがわいてくる。
 
眼鏡のフレームが合わなくて少し困っている。
昨年は立て続けに眼鏡を駄目にしてしまい、泣く泣く新しいものを買うことになった。以前使っていた3つのうち2つは学生の頃奮発して買ったもので、それなりの愛着もあったのだが、ぽっきりと折れてしまったので仕方ない。もう消耗品と割り切ってそんなに値段しないやつを夏ごろ2つ購入した。フレームの細いのと太いの。細い方は何度調整してもらっても耳が痛くなるので予備用に取ってある。もう一方は段々とねじが緩くなって、調整は自分でするのだがずり下がってしまう。マスクをするといよいよ落ち込んで、下を見やるだけで地面に落ちてしまうこともあるため大変不便です。日中パソコンを使う時間がほとんどであるし。ゆゆしき事態だ。

夕方から雪が降りはじめて、明日の朝が気がかりです。路面が凍結していないといいのだが。まあ凍結するだろな。風の音がする。

寒かったので今夜は鍋だった。暖冬であったから、採れた白菜も春菊も例年よりも見た目からしてかたくて甘みがなさそうだが、煮込んでしまえばまあおいしい。ゆず胡椒と酢みかんをたっぷりと入れる。

 

鍵のスペアを作ろうという話になる。

スペアのペアはいいとして、ス-とはなんの接頭語だろう。共通の、くらいの意味合いではないかなとあたりをつけて、けれど接頭語ス-で始まる英単語が他に思いつかない。

のでスペルその他を確認してみると、

スペア spare 予備

ペア pair 同種の、切り離せないひと組

と全く勘違いしてこの語を認識していた。接頭語でも何でもなかったし、そもそも成り立ちが違う。pairはラテン語の等しいという意味の語を語源としているらしい。

なるほどな、と思う。

スペアキーはマスターキーと等しくなりえない。スペアキーからまたスペアを作るとどんどん鍵穴にはまりきらなくなっていくしな。そして接頭語s-はありません。

 

日中エアコンの効いた部屋にいるので乾燥が激しい。設備が新しくなって空調がきちんと巡るのはいいけれど、肌がぱりぱりしてくる。

 

 ファイルや文書を保存するとき、20160107なにがし といった名前を使うことをこのんでいる。年が明けたという実感はあまりない正月だったが、今まで丸一年間2015と打っていたのが、突然2016になった、そこが妙に浮き出たような、しかも01という数が付随することによっていよいよ新鮮味を帯びているような感覚がある。指は2016を入力するのに慣れたので、あとは段々と目がいちいちそこを新しいものとして発見しないようになるだろう。

あけましておめでとうございます。今年もよろしく願いします。

と書くにはもう遅いようだ。もう三が日を過ぎてしまった。

三が日という言葉の、が はひらがなでよかっただろうかとふと思って検索してみたがやはり三が日だ。普段口頭で云う言葉を書きしるす時、どことなく違和感があることがある。その都度確認するかしないかはさておき、確認の方法がたいていの場合、ちょっと入力フォームに言葉を打つだけ、というのは大変便利だね。小学生のころ、一時期漫画の影響で広辞苑を学校に持ち歩いていた。他の教科書もあったのでかなり重かったはずだし、辞書は机にも入りきらずに常に鞄に入れていた。掃除時間は左右の重さのバランスの悪い自分の机を運びたくなかったので他の列を運んでいたことも覚えている。そんなに長く続かなかった習慣かもしれない。そこらの記憶は曖昧だ。今思えば大変馬鹿らしい、もしくは子供らしい行動だが、あれこれ分からない言葉を紙を捲って知ろうとした、あのわくわくする気持ちは今持ちあわせているだろうか。アイヌ語ゲーテファウスト、漫画や小説に出てきた言葉を逐字友人と引いては結局よく分からないと言っていた気がする。知りたかったことの答えは、見つかったこともあったし、見つからなかったことも多かった。なかでも、例えば「連関」という語を繰って、「関連すること」と一文のみある。そこで「関連」と引けば「連関すること」とある。ああいうのには参った。手も足も出ません。

 

年も明けたので、重い腰を上げて大掃除をした。金曜には遠くはるばる人が来るためでもある。

こたつ机の位置を変えて、大体のごみもまとめてしまった。あとは布の類をどうにか整理して押し込むだけです。考えたくないことは先延ばしにするたちなので、何が入っているか分からない段ボールが常に1つはある。今日それを開封して、一体どこに行ったんだと探していた目覚まし時計が出てきた。半年以上ぶりの再会に戸惑いの成分が大きい。何を思って段ボールに仕舞いこんでいたんだろう。スマホのアラームはどんなにやかましく重ねて設定してもいよいよという時間にならなくては起ききらない体たらくなので、今日からまたこれを使用することにする。寝床から一番遠い棚に置いて、そこまで歩いて、アラームをオフにする。その後また床に戻る可能性も多いにあるが。

 

時計といえば、年末年始はとにかくお喋りと絵茶を楽しんでいた。食べて寝て、風呂に入る以外はずっと通話する。その通話先にある時計の秒針を聞くのが半ば安心材料になっている。声と、めったにないが外の車の音と、モーター音のような低いうねりの中に同じ音が響いているのを、手を動かしている間意識しようと思えばじっと追えるし、話に意識が向けば気にも留めない。当然規則正しい音です。

なんとなく壁掛け時計だと決めつけていたが置時計の可能性の方が大きいのかな。部屋で見つかった時計は秒針の音は鳴らないし、学校の壁掛け時計でかなり音が響くものがあったから、そのせいか。

暫くここの更新をさぼっていた。一度更新しなくなるとぱったり途絶えてしまうのがブログというものだと過去何度も経験しているので、完全に足が遠のくことはないように努めたい。日記を立ち上げてから日中の思考が文字によってなされるようになったので、それを書き起こせばいいのだけれどいかんせんその場で忘れてしまう。

 

昨日の昼から今日の深夜まで、絵茶の人と忘年会絵茶をして過ごす。1年以上ぶりに会話する人もいて、ちょっとした同窓会のような感覚がした。会話の内容も近況から始まって思い出話が中心で話す内容は尽きない。昔繋がったけれどもう姿を見ない人もいる、あんな人いたよねって確認のように名前を持ち出す。名前さえも曖昧な人もいる。匿名の場所でしか知らない、名前も知らない人もいる。何を話したか、どんな絵を描いていたかで人を覚えているけれど顔も知らないなんて、もう当たり前だけれどそういうコミュニティにいない人からすれば相当変な感じするでしょう。元気にやっているといいな。

昼間こんこんと寝入っていて起きるともう夕方で、餅つきが終わってしまうどころか丸めた餅が冷えて硬くなっていた。乾いた餅の表面に何もしなかったことへの申し訳なさが若干生じる。

例年きちんと朝から起きている年は、かまどに薪をくべる係をかってでる。木のはぜる高い音と餅をこねる機械の音、酢餅のために大根をすりおろす音、話し声ともろもろのやかましさ。燃え上がる火に体の半身だけが照らされて、左の顔面が熱をもって乾燥する。確かそういう感覚だった気がする。においは、蒸したもち米を濡れた布巾で取りだす時の十分な湿気を伴った甘い空気を思い受けべようと思えば呼び覚ませるが、どことなく嘘くさい。炊飯器の匂いと混同しているし、詳細を忘れてしまった。

杵と臼で餅をつく家庭も減ってきたねって話すけれど、あと10年もすれば餅を家で拵える家もどんどん少なくなりそうです。

 

明日もゆく年くる年年越し絵茶です。もう今日になったか。

日中ずっと引っ越し準備にかかりきりで去年の今頃より一層年の瀬を感じる。血豆になったり腕やら足やらが気づかないうちに青く染まっている。いつもの動線に物があるのがいけない。慣れた領域で手元ばかり見て足先の様々にぶつかっていくのに、だんだん慣れて来週にはもう越し終わってしまう。

段ボールを積み上げて、要らないものを捨てていくのに、よくもまああれだけのものが収まっていたものだと驚く。

それにしたって自宅が汚い。布系と紙系さえどうにかすれば9割片付くんだよね。ああ師走。

皮膚病の馬が屋根のある小屋に繋がれていて、通路はその馬の口元に届くか届かないかに渡されている。馬は時々人間になるようだ。観光客なのか、二人の若い女性が草っぱを与える。皮膚が爛れてもうほとんど毛のない馬は、涎を垂らしてそれを食べる。当然触れたくはないものだから、女達はぎりぎりの距離で、異質なものに対する好奇心を表情に取り繕いもせず眺めている。

いつの間にか女は消えている。馬はじっとこちらを見ていて居心地が悪く、しかし通り過ぎるには馬の真横を通らなければならない。こちらの目を見たままで死にたい、と言われ、ぶよぶよと人間のかたちになる馬にもう嫌になって逃げだす。

外に出ると石畳があって、お隣の娘が生後3カ月の子供を私に手渡そうとしてくる。子供は前回会った時には首も座っていたけれど、抱くのは怖くて拒否する。何故とその母親の姉にいわれても返事に困る。その気まずさを持ったまま目が覚めた。

馬の夢と子供の夢は別々に見て、起きるときに混ぜてしまったんじゃないかと思う。子供は先週あたりに実際に見せてもらってその時は抱いた。抱き上げてしっくりきませんという不快気な顔をされるのに申し訳なく思った。

 

めっきり冷え込んだ。先ほど車を走らせて漫画やDVDを返しに行ったが、みぞれが降っていた。まだコートを出していないので朝探さなくては。ウォーターワールドと地獄で何が悪いといちご100%アイシールド21ジョジョ5部を返却し、漫画の続きと別な映画を2本借りた。ツイッターの映画メモ用アカもずいぶんご無沙汰になっているから、さしあたっては年末年始まで溜まっている観たいものリストを消化していきたい。

お酒を克服しようと手始めに日本酒に手を出す。甘い辛いという概念がまだ分からないけれど甘いものからのんでみる。ふわふわとしていてしあわせなのは、呑む相手によるんでしょう。心を許した人とだけ杯を傾けていたい。

 

 

風邪を引いている。というよりアレルギーかもしれない。1か月ほど咳が止まらなくて、大変うるさい。 喉も若干腫れてきているようで、咳き込むと口内が鉄くさい。 症状で検索すると咳喘息っぽい。ちびまるこちゃんでもあった話と記憶しているが、家庭の医学やら今であればインターネットで病気を個人診断しようとすると何やら恐ろしい病気の可能性をやたらに示してきて不安を煽ってくるので話半分に読み流す。

 

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というところまでメモしていた。

検査結果は24日に分かるとして、さしあたっては喘息扱いで薬を処方される。検査で吸入を久々に行った。あのしょっぱいような、薬臭いような湿った煙をいっぱいに吸い込むのを口呼吸で繰り返す。懐かしさが漂う。機械自体はそこまで進化していないと思うが、子供の口には大きかった吸い込み口がそこまで圧迫してこないのを体の成長と定める。不健康の時に成長を感じるのも変な思いだが。

これを書いているときには薬が効いているのか咳は出ない。熱が出るとか、腹の調子が悪いとか頭痛がするとか、のっぴきならない症状があらわれると病気していると実感するだろうが、本当に咳だけなので薬の量が大仰に思えてならない。薬の成分のなんやかやが体のどこかのなんやかやに作用して、ぶわぶわと不調に揺れる機能を制御していくのだろう。

右手の親指側の盛り上がった肉の腹、ほくろのようなものがあることに気付いた。すいばりのようなものかとつねっても手ごたえはなく、痛みもないので数日放っておいた。自分の体に新しいものを見つけるということを暫くしていなかったのでしげしげと眺めていたけれど、母親に見せたところやはり見覚えがないということで針で穴を開けてみた。自分の認識よりも肉親の方が認識の度合い/違和感の度合いが強いと思うけれどどうだろう。みんな自分の目に届く範囲の体表のことは把握しているんだろうか。

皮膚に針を通して、若干痛覚を刺激してくるところまでほじくりまわしてみて、なんとなくこれは血豆のようなものだと判断する。新しく血は出たけれど、1か月もすればもう何もなくなるのではないかな。それとも正しくほくろとして体表に居座るのだろうか。その黒い点の左下(掌を上に向けて見て)にも黒い点があって、これはつついてみるとすいばりだった。皮膚ごとちぎったのでこちらはもう何もなかったふうになっている。

 

ところですいばりというのは方言らしい。信じられないね。

初めて方言だと知ったときから今まで、すいばりを形容するのにすいばり以上に適した言葉はないと思っているのだが、関東の人に「畳や戸口で毛羽だった繊維が刺さることをなんというか」訊いてみてもトゲという回答はあってもすいばりとは言ってこないので、やはり日本語の上で共通語にはなれないらしい。トゲはね、違うんです。トゲっていうのはもっと大きいもののような感じがする。これを打っている今も、すいばりが吸いバリと変換されるので非常にやりづらい。といってもこのパソコンの変換はいつも変てこな漢字だったり言葉の区切りになったりで、チャットやツイッター等即時的なレスポンスを求められるツールを使っている時に自分の思考をスムーズにトレースしてくれないので参考にならない。案外他のパソコンだとすいばりをすいばりとして入力できるかもしれない。

本を読まなくなってしまって、これはいけないと思う。思うものの、もう離れてしまった習慣を取り戻すのに、何から手をつけたらいいのかとっかかりがつかめない。高校生の時までがピークだったな。大学に進学すると必要にかられてしか読まなくなった。そのかわり映画や音楽に手を出しはじめた。今は映画も観なくなって、思い出だけ繰り返し咀嚼している。

 

スマホの調子がずっと悪い。反応しなくなって数時間何もできない日が多くなってきた。日中は困らないが、目覚まし時計を紛失しているのでアラームをかけられなくなると焦る。このまま徹夜で過ごそうかという気になる。