日の当たるところは夏かと思うほど暑いのに、室内は涼しいか、特に夕方以降から朝方にかけてやや寒いくらいだ。四肢が火照るので掛布団をはねのけて寝入り、しばらくして寒さに手繰り寄せようとする。今年は不慮の事故というやつで布団を焼いてしまい、焦げて穴のあいたものをだましだまし使っているが、当て布で補修するのに最後の一辺を縫い合わせるのがどうしても億劫で時折中から羽毛が飛び出る。起き掛けに頭に羽毛がついているのがまぬけだが。
夜のうちはどんなに呼んでも来ないねこが、起き掛けに掛布団を押し上げて空洞を作るとうごうごと入ってくる。いとおしい気持ちになる。もう少しもすれば暑さでお互い触れずにいようとする季節になるので、それまで冬毛が抜け落ちる前の柔らかな手触りを楽しんでおく。

 

新しく買って放置していたガラスの急須を烏龍茶用に取り出してみたが、湯呑に注ぐときに湯が垂れてしまう。前買った同じやつはそんなことなく割れるまで重宝していたのに、どこか知らないところで変更があるのかな。安物だから、個体によっていろいろあるのかもしれない。継続して使用するが、近いうちにコツを掴めなければお役御免になりそうだ。

休日のだらだらした生活習慣を引きずっているのか、とにかく寝つきが悪く明け方4時ごろまで布団でぼうっとしている。手持無沙汰につい暗闇でタブレットを開いてしまうが、当然目がさえて悪循環になる。日中はいいが反動で夕方は眠くて仕方ない。一週間とても長い。

 

来年2017年のカレンダーをついうっかり目撃してしまい憂鬱になる、祝日と土曜日の関係はうまくいかないものですね。

パソコンを長時間つけたままにしていると、いつの間にかタスクバーの音量のアイコンが消えている。カスタマイズ画面を開いてもグレーアウトして操作できないし、なんなのだろうな。

 

夕方から夜に迫る時刻、車を走らせていると対向車がライトを点けだす瞬間にあうことがあり、それを期待して目で追ってしまう。つい意識して見るがなかなか目の届く範囲で点灯されるのはレアで、でもいざそれを見届けたからといってなんということはない。

映画やアニメで登場人物が水中に潜るシーンがあると、その間自分も息を止める癖、そうせずにはいられない感覚に似ている。大体そういうシーンは物語の盛り上がるシーンであるから、テレビだとCMに切り替わって息を吐いて終わる。よくそれで死んでいた。他にも、アスファルトの白線だけ歩かなければいけない気持ちになる自分ルールやら。見逃してしまうと死んでしまうのだ。

 

近所のさくらんぼの木、布を被せているがこのところの雨で実が割れてしまわないかな。うちの木はろくに実もつけないまま何年も期待だけさせておいて、根腐れだかしてしまった。やっと木が大きくなって、収穫を楽しみにしていたのに、甘く実る時期にはカラスにやられてしまい、去年か一昨年に2粒だけ食べた記憶がある。カラスに狙われるということはおいしい実だったということだ。おのれ、と思う。りんごも去年白蟻にやられたし、桃は昔たくさん甘い実をつけたが近年振るわず花を楽しむために1本残すのみだ。柑橘系は割合毎年収穫できる優秀なものが多い。いやしかし今年は天候の関係か八朔がすかすかで全然食べなかったな。どこの家もそうらしい。植えたら基本放置なのもあってか、木に生るものはなかなか不振である。甘柿は家の真横に立派な木があったが、実が地面に落ちて汚いということで根っこから切ってしまった。あれは惜しいと思ったが仕方ない。子供の頃、手では到底届かないところにある柿の実を竹の棒でねじ切って採るのが楽しかった。

昔家庭園芸の本を読んでいて、ジャボチカバという見た目のインパクトが物凄いフルーツの項目があり、今でも時々植えたいと言うが誰も乗り気になってくれない。ぶどうのような丸い果実が直接木の幹にびっちり生えている写真、なかなかおいしそうに見えない、人によっては蓮コラを想起するようなぞわぞわする見た目だが、説明文にりんごとぶどうの中間のような味とあって想像上では絶対においしいはずだ。熱帯原産であるしここの土地だとちょっと温度が足りないかな。憧れだけが募る。

台湾の台北に旅行に行ってきた。帰国してから日中寝てばかりいる。購入したお菓子を少しずつ食べる。おいしい。

 

初めての海外旅行で、同行者とは現地で集合するということもあって不安もあったがなんとか二日目に無事会えた。初日は一人で先に現地入りし、駅周辺や夜市をぶらぶらしてまわったが、本当に日本と様子が違うものだね。気温や湿気や植わっている植物、におい、人の服装に日本と逆の車道、それらの差異が強烈だった。特に食べ物に関するにおいは通りを歩いていて脳みそがしばしば混乱し、ありていに言えば拒否する瞬間がよくあった。香辛料や香菜に慣れていないのと、最初正体不明に感じていたので余計に際立っていたと思う。これはパンフレットからは伝わってこない情報だ。いかにも旅行しているという気持ちになる。

胡椒餅や鍋、梨とりんごのあいのこのような蓮霧をはじめとした果物、スナック菓子、お茶等は何度でも食べ飲みたい。あれらはここでは手に入らない味をしていておいしかった。特に鴨の血を固めたゼリーに似たものが入った鍋、血と知って驚いたが経験のない食感で面白い。

メニューを見て、漢字から大体の雰囲気がつかめるものと、全く分からないどころか日本語で添えられた説明文に頼って注文したものの実物がこちらの想像とずれているものがあり、なんだこれはとお喋りに熱が入る。

 

4日かけてやっと台北駅に関しては迷いなく動けるようになり、慣れたと思ったらもう帰国する日で、もう少し時間がほしいと思う。また行きたい。次は台北以外の街をまわってみたい。

日が落ちるのがずいぶん遅くなった。近所に渡す物があるついでに、池まで散歩したが気温もちょうどよくてこの時期は外の空気が気持ちいい。れんげ畑が一面に広がっているのをのどかだなあとずんずん進む。咲きはじめから段々と紫がかっているように感じるのは錯覚だろうか、少し検索かけてみたが分からない。歩きながら横目に四つ葉のクローバーを見つけるのが得意だが、今日は五つ葉を先に2つ見つけてしまい、珍しいがバランス悪くてそんなに嬉しくない。足りすぎているのは崩れている感じする。でも小学生の時に最高で七つ葉を見つけたことがあり、あれはちょっと興奮したね。ギネス記録で56枚が日本で発見されたというが、あそこまでいくと途方もない。

足元ばかり見て歩く。れんげに、青くて小さなキュウリグサタンポポみたいに黄色くて、茎のほっそりしたオオジシバリ、シロツメグサを摘んで、ご無沙汰している初代の猫の墓に添えてきた。草が伸びきってほとんど地面が見えないのに申し訳なく思う。でもあれくらいがいいのだろうか。今検索しながら植物の名前を特定しているが、ざっくりしたワードで出てくるので助かる。

 

林を分け入って池に出たが、先客がいたのでそこそこに引き返した。

竹の子に飽きてしまった。食べたい欲求が急速にしぼんでいる。

 

言葉を出し惜しみすると後悔することがあって、あの時伝えておけばよかったと後々思ってももう遅い。だからといってフィルターで濾し取らずにそのままを吐き出すのも後々もっと考えるべきだったと再考する。両者どちらがいいのか分からないが、日中手を動かすだけの作業中に牛の反芻のような気持ちで舞い上がった気持ちを処理しようとする。内省から始まる対話において想定される他者は自分なので気安いことには気安いが想像の領域を出ない。喋り続けるたちなのも悪いな。ここは実態は分からないが読まれることを想定している日記という形態なので、後で読んで意味するところが少なくとも自分に伝わっているか確認する上で便利です。

 

口癖を自覚するとそればかり言ってしまう。ここ1カ月くらい、もっと前かな、「びっくりした」という語がブームのようだ。もっと他に言葉はないか口に出した後に反省するが脊髄反射のように使ってしまう。ああやだなまた使ってしまったという引っかかりが蓄積するともやもやする。でも便利なんだよね。他にもあったが今出てくるのはこれくらい。

口癖が伝染することも多い。よくしゃべる相手の口癖、いつの間にか自分のものにしているのを自覚して開き直る。一度定型文に登録されてしまったものの瀕出度合いの多さよ。

 

後付けされた理由で進むストーリーを読みたい。いやまあそういうものが大半なのだろうが。

昨夜帰宅して、風呂からあがって台所で水を汲もうとしたら、流し台に赤舌平目が4尾そのままに置かれているのにぎょっとした。下処理もそのままに母が病院に駆け付けたのだった。1尾はまだ鱗が付いていて、包丁の背で剥いだものを煮ておいた。今日は外食ですませたので明日以降食べる。

ぐったりと裏表の秩序なく横たわる平目は薄暗い照明の下にあって今道子のモノクロ写真の印象だったと思い返すが、すでに記憶をフィルターにかけたからかもしれない。2尾で500円前後とのこと。安い。

 

リサイクルショップに用があって、数件回ったがどれも移転や閉店してしまっていてあららとなった。

つつじの季節になりつつある。庭の赤いものから順々に色づいて、藤や、花大根も愛らしい。弁当に入れた花大根の色味や口に含んだ時の花粉の粉っぽさと青い匂いがいかにも4月らしい。

花の話題ばかり出している。日々色々なことはあるにはあるのだが、それを表に出していいのか判断に迷う。性別や社会的身分や問題や、何に対してか分からない予防線を何重にも置きたいのと、全てどこかに投げ出したい気持ちが拮抗していて、結果このようなありさまになっている。織り交ぜても構わないのだろうが。

 

竹の子を、掘ってきたものを庭の簡易かまどで灰汁抜きしてもらって、煮たり炒めたりしたものを少しずつ食べている。煮ものにしたものを天ぷらにして食べるのが一番好きなのだが揚げ物が面倒なのと、父の体調が戻るまではあの人は繊維質を取ってはいけないので後にする。先日近所の古墳を見てきたが、竹林を進んでいくのに踏みしめた地面に芽を出しつつある竹の子の気配を感じた。道を外れると伸びきったものさえあった。例年よりも多いという人も、少ないという人もいて、さて実際去年と比べてどうだったか。古墳講座はその土地のお祭りに絡めたもので、山に登る前に餅をふるまわれ、帰ってきてもまたふるまわれ、猪汁もあるというので1杯いただこうと声をかけるとこちらは100円だった。いいのだけれどなんだか釈然としない気持ちになる。青梗菜を買って帰る。

 

散髪をするのにいつも何も決めずに短くしたいという気持ちだけで予約を入れるのに、今回はしたい髪型があって、それを要望してみた。一晩寝ると結果がわかる。美容師さんに整えてもらったその日はなかった問題が、風呂に入って一晩枕と接してみると浮上するのはなんなのだ。

寝ます。

相変わらずばたついている。4月も半ばを過ぎればひと段落するだろう。完全に春になってしまった。新潟はまだ桜は咲いていないらしい。

桜の匂いが謳い文句の商品が並ぶけれど、桜の匂いに関する共通認識ってどんなものだろうか。ソメイヨシノはほとんど無臭に近いしな。なんらかのこれといった概念があるのでしょう。いちご味の飴でいちごの味がしないことと同じで、本当にそのものを感じさせてくると戸惑ってしまうかもしれない。

 

家の畳がいつの間にか張り替えられていた。いぐさの真新しい青い匂いに混じって、白蟻用殺虫剤のすっぱいような、いかにも体に悪そうな臭いが強く、今はもう薄まったか慣れたが、暫くその周辺を歩く際には呼吸に注意していた。良い点といえば、障子の向こうから透けて見えるいぐさの青みが綺麗です。

玄関に通じる廊下といえるほどでもない通路も貼り替えて、こちらは猫が爪を立てるので今日も叱りつけた。普段毛ほどもこちらを気にしないが、叱れば顔色を伺ってくる。ごちんと頭を手のあたりに向けてぶつけてきて、誤魔化そうとする姿に怒る気力も失せてしまう。

映画を見てしんどい気持ちになる。にんじんという映画。表のパッケージだけ見て、なにやら子供の話であるらしいということだけ確認して借りてきた。リトル・ダンサーを期待して蓋を開けてみたら蝶の舌だったような、しかし最後にぐっと突き落とされるような感覚でなく、ただただ最初から最後まで悲しい気持ちになった。昨日観たのがフィッシャー・キングだったからその落差がすごいです。

 

大根のとうがたってきたものを煮つけにしてもらって食べる。この季節の、終わりかけの大根のかしかしとした食感を楽しんでおく。夜日が暮れて帰宅する日が続くものだから、沈丁花の香りが余計に強く感じられる。でもそろそろ終わりかけでしょう。

 

金曜から土曜にかけて晴れればいいのだが。

ばたばたしている。3月いっぱいばたばたする。

 

温かくなってきたかと思えば寒くなって、ここのところ人と会えば気候のことばかり話題にしている。春は来たかと思えばすぐ夏に移ってしまうから、春らしさを感じることがあればそれを取りこぼさないようにしたいものです。

庭の沈丁花も盛りで、通りがかると鼻先に匂いが届く。梅の白や紅もあちこちで目にします。そういうことだけを感じていたいけれど花粉症がどうにも早く症状出ているので用事がなければどこにも出る気になれない。

 

女と暮らす男の視線から。家を買って女と住みつく。色気のある女で、私を好いてくれるという。古ぼけた家には戸が壁の至る所にあって全体を把握できていないが、掃除用具入れの奥に扉があるのを見つけて押し開くと寝室とダイニングが一緒になった部屋に繋がっていた。小鍋がコンロにかかっていた。そこから部屋に入っていくと盛り上がった布団に女が寝ていて、その寝姿があんまりにも健やかなものだからもういいか、と思う。書斎に移動し、三重に鍵のかかった箪笥を開いて、また三重に折り重なった入れ物を丁寧に割り開いて小刀を取り出す。箪笥は赤みがかった木製の、よく磨かれているのだろう表面がつややかに光ったもので、具体的ではないが何らかの思い出があることは覚えている。いつの間にか起きだした女が壁にもたれかかりながらこちらを見ている。

 

古ぼけたテーマパークを歩いていくと、柵のない動物園のコーナーに行き当たる。やにわに人の気配に活気づいてきて、門を抜けるとライオンが左手に待ち構えていた。そのライオンの骨格が人間に近づいて、遠のいて、ぐよぐよと変形し歪んでいくのを悲しく思っていると、草はらの向こうにまた別な動物がいるのが見える。近づきたい、隔てるものは何もないのだ、そう進んでいくと足元がぬかるんできて、沼のような場所に出た。係員のアナウンスが響いて、乾いた地面まで戻るように指示される。肉食だろう動物達が沼の向こうからどんどん走って差し迫ってくるのから逃れようと、その場にいる人々は泥や草に足を取られつつ後退する。柵がないからといって人に従えさせているとか満腹にさせているとかいうわけではないらしい。ようよう足が沈まない程度の地面に行き当たると平和が戻ってきて、その土地を治めているらしい先住民が食べられずに済んだことを喜ぶ歌を歌って火を囲む。いつの間にか夜になっていた。結局ろくに動物見れなかったな、腑に落ちないながら隣にいた女と手を取って踊るが、喋るわけでもない、笑いもしない、ほとんど人形のような木や廃材で出来たつぎはぎだらけの体が相手だったので一人で踊っているようなものだ。

 

映画の中の女は肉感的で美しかった。異国のドラマは、オレンジがかったフィルターを通して撮影されていて、それが一層青色を引き立てていた。最初から最後まで観たが、ラストシーンは半分寝かけていたのと人から話しかけられていたので字幕をほとんど見逃してしまった。巻き戻しのボタンを押す。記憶まで遡るような感覚になる。頭の中をひっかきまわされているのだ。「出会ってしまったから恐ろしい、出会わなければ知らずにいられた」確かそんな台詞だったと思う。頭の中のストーリーと照合しながらもう一度ラストシーンを辿る。映画の中の女は井戸の前で絶命した。

エンドロールにはアラビアのロレンスとあったが全く違う映画です。200分越えの作品とあってまだ手を出していない。

 

用事のない休日に午前中に起きるのは久々だった。

山々から白く煙が立ち上っていた。夕方のぬるい風が吹き抜けて、湯気のように緑茂った斜面から最初はとろとろと、次第にもうもうと煙がくゆっていく。地面の熱と風の冷たさの差によるものらしい。珍しい現象だ。これは写真に収めたい、カメラは持っていないから、スマホでどうにかしたいけれどこの見た目そのままに写せるだろうか。はやる気持ちを抑えきれず斜面を駆け上り、スマホを取りに丘を登った先の家を目指す。柔らかな苔むした山肌はやはり白く濡れていて、ひと踏みごとに水気を靴に沁み込ませる。玄関にかけこんで人々になにやら話しかけられるのをおざなりに返し、手にスマホを持って再び玄関を出る。立ち上る湯気はもう霧のように全体を覆ってしまった。ああこんな景色があるのかと立ちつくす。

 

地図を埋めなければ。世界地図の、イタリアの東側は海溝深く、スコップで砂をかき集めて足してみても意味すらない。南側の砂を掘っていると灰色のキャビネットが出土する。中身は確かめず掘り進める。また、しっかりと根を張っていると思われたイタリアは、渡した橋のように南北の2点で自重を支えていて、南の砂を取ってしまえば幼いころ遊んだ砂場の棒倒しのようにいつか崩れ去ってしまうだろうことも判明した。足元にある二手に分かれた小さな双子のイタリアに途方に暮れていると、世界史の講釈が始まった。曰く、イタリアの東、海の向こうにはエジプトがあり、隣接するようにマレーシアがある。その大陸とイタリアの境に昔の王様は城壁を築き、敵の侵入を防いだ。他にも城壁はあちらこちらにある。未開の世界は恐怖そのもので、黒く輪郭だけが記載された見知らぬ地図上の国は時が経っても詳細が分からない。

足元がこんなにも不安定なのに、四方ばかり気にして、知らないとは恐ろしいことだ。

 

スカイプ会議に入れられている。クラスメイトと話すのはいつ振りだろうか。最初二人きりで話していた名前が同じ子と打ち解けるにつれ、もう一人通話先にいることに気づく。この二人は互いに仲が良かったので話題も尽きず、若干聞き役に回りながら、何をするわけでもなく口だけが分離したように動いている。少し離席して戻ってみれば、5人、いやもっと、人数は正確に分からないが増えている。久しぶりと、元気だったか確認して、相手先すら把握できないお喋りの場でますます口は閉ざされる。

 

_______

2時間ほど転寝をしていた。1時間未満の短い睡眠にするつもりだったので、椅子に凭れてそのまま寝入ってしまった。途中目覚ましをかけたが眠いものは眠い。体がすっかりかたくなってしまった。その間にこれらを見た。

庭の猫を撫でようと、屈んで見やれば沈丁花の蕾が膨らんでいた。あれはいつもは咲いて匂いが漂ってからああこの季節が来たなと分かる。もう少しすれば花開いて遠くからでも香るようになるだろう。

 

後部座席での移動中、方々を眺めるのにも飽きてシートの隙間から運転者の耳の後ろのほくろを眺めていた。ほくろが耳の後ろにあるって面白い。その人は自分の耳の後ろがどうなっているか知っているだろうか。

自分で認識できない体の領域というものがある。背中の表情なんかがそれだ。認識できる範囲でも、はっと気づくまでなかったもののように扱っていることもある。首元にあるほくろは鏡を覗けば必ず目に入るはずなのに、数年前までその存在をないものとして過ごしていた。一度意識すれば目が行く。

そういえば以前掌にできたほくろのようなもの、まだ消えていない。

雪でいろいろと立て込んでいた。ボイラーが凍結して風呂に入れないのには参った。配管もおかしいようで、応急処置はしてもらっているから一日だけの不便で大事ないが、まあうちはこのくらいで済んでよかった。

月曜の朝はスタッドレスの車を借りて最徐行で移動したが、それでもブレーキがつるり滑りかけて肝を冷やした。県道も国道も普段よりずっと車通りがない。あんなさくさくした降り積もった雪を見たのはいつぶりだろう。心踊りたいのは山々だが、さっと降ってさっと融けるくらいがいいな。惜しむくらいがいい。

道道の雪だるまはせいぜい明日までの命だろう。

 

土曜、スマホを交換して、タブレットも購入した。スマホは新しいものを買ってもよかったがどれがいいのやら。タブレットは、要るか要らないかといわれれば要らないが、モノ自体は無料なのと2年間はプラス300円くらいの使用料なので使ってみる。午前中にショップに行ったが結局昼過ぎまでかかった。呪文のようないつまでも終わらない店員の言葉に思考停止ではいはいと答える。別件で、インターネットも光に換えた特典でなにやらよう分からんモノが同日届く。BS等色んなチャンネルが見れるらしい。放っているが。

はいはいと返事しているとよう分からんものが増えていく。得しているのだか、いないのだか、そういうことを考えようとする気力が萎えていく。